2文字宣言 ストーリー (なぜ、この仕事をしているのか?)
はじめまして!
「人当たりがいいし、年寄りから見て優しい(笑)」
と言われる、誠実な塗装屋さんの吉田武史(よしだ
たけし)です。
「壁がきれいになったので、『植木が映えるね』と
ご近所さんが言うてくれて、うれしい」とお客さん
が“笑顔”になることが、私のよろこびです。
そのために、「ちょっとしたことも何も言わんとや
ってくれる。社長の教育が出来てるからやろ」と言
われるように、心がけていきます。
なぜ、私が【感謝】を使命と宣言しているのか、
そのわけを聞いていただけますか?
「ひげをじょりじょり」
父は、家が貧しかったので、中学のときから新聞配達をしていました。字がき
れいだったので、中学卒業後、見習いで塗装・看板の親方のもとで修業しまし
た。31歳のときに、塗装工として独立しました。
父は一人でがんばっていましたが、仕事はなかなかうまく行かない。それでも
仕事に明け暮れて、父は、家に居る時間がほとんどなかったです。一緒に過ご
したという記憶はあまりありません。
日中は仕事。仕事が終わったら飲みに行くという毎日。母が「毎日飲みすぎ」
というと、お酒を飲んでいるときは怒り出すので、怖かったです。
家でお酒を飲むときは、ビールから日本酒。大酒飲みです。父は酔っぱらう
と、私に顔を摺り寄せて、ひげをじょりじょりしてきました。そんなときは愛
情を感じました。
小学1年生の時に、軽トラックに乗せられて、よく飲み屋さんに連れて行って
もらいました。私は小さいから、「これどうや?」とお好み焼きとか、ちょこ
ちょこ出してもらいました。お店の人や来ている人が優しい人ばかりで、可愛
がってもらいました。
小学校の時、父はキャッチボールをよくやってくれました。夏休みには家族旅
行にも行きました。運動会や授業参観にも来てくれました。今思い出すと、い
ろいろ家族のことを考えてくれてたんだなぁと思います。
「ドラえもんの家や!」
母は優しかったです。怖いとか、むちゃくちゃ怒られたとかの記憶はほとんど
ありません。小さい頃から、私はよそに行くと人見知りが激しかったです。人
前に出ると、恥ずかしくて顔を真っ赤にしていました。なにかあると、ずっと
母の足元にしがみついていました。
両親とも働いていたので、私が学校から帰ってくると、1 人なので、暗くなっ
てくると不安でした。母が仕事から帰ってくるなり、私が話しかけると、よく
話を聞いてくれました。
小学1年生の時に、母の勧めでサッカースクールへ通い始めました。運動はで
きたので、私の気弱なところをもっと鍛えてほしいと思ったのかもしれませ
ん。
サッカーは一生懸命ではなかったです。特に楽しいと思ってなかったです。
「練習してレギュラーになろう!」という意識も無かったです。サッカーに強
い興味がなかったので、特に頑張りたいと思わなかったのです。
ただ、サッカースクールを続けたのは、友達がみんなやっていたからです。友
達と一緒にいてワイワイしてるのが楽しかったのです。
自宅に父の作業場がありました。父は黙々と仕事をしていました。子供ながら
に、父の姿を見て「大変そうだな」と感じていました。ただ、他のお父さんと
違う仕事だったので、「他のお父さんにできない仕事をしてるんだ」と思って
いました。
父は、看板を作ることができるので、自分の家の玄関先にドラえもんの絵を描
いてくれました。友達に「ドラえもんの家や」と言われていました。「うちの
父ちゃんはちがうぞ」という特別感がありました。
父は、なぜか独り言が多かったです。段取りをしていると「あれして、それし
て」と独り言を言ってました。友達が来た時に「おまえのおとん、なんかしゃ
べってるぞ(笑)」とよく言われました。
今、私も、父に似て、独り言をよく言ってます。
「おれも行きたくないわ」
中学校に入ると、サッカー部に入りました。小学校のときの仲の良い友達が入
ったからです。正直、どうしてもサッカーをやりたい!という気持ちがあった
わけではありません。
先生も先輩も厳しかったです。練習も厳しいだけで、楽しくはなかったです。
人前に出るのが嫌いだったので、「試合も出ない方がいいな」とか、「出ない
方が気が楽やな」と思っていました。目立ちたくないと思っていたので、試合
で勝ちたいという欲もなかったのです。
サッカー部ではレギュラーでしたが、そんなに強いチームでもなかったです。
厳しい練習に仕方なくついていきました。
人には好かれたいという気持ちだけはあったので、サッカー部のみんな、友達
同士は仲は良かったです。なにかあると、友達は、自然と私の家に集まって来
ました。それが、中学のときの楽しみでした。
高校では、弓道部に入りました。サッカー部は厳しいので、もういいやと思っ
たのです。そんなとき、友達が弓道部に入るというので、誘われるまま入りま
した。
上手くなろうとか、県大会に出たいとか、目的がなかったです。自分で「これ
したい!」という欲求は全然なかったです。
弓道部に入っても、一生懸命練習するよりもみんなでワイワイするのが好きで
した。時々、練習をさぼって麻雀をやったりしていました。
2年の時に、先輩から「部長、おまえできるか?」と言われました。ナメられ
たくないという気持ちがあったので、偉そうな雰囲気を出していたのかもしれ
ません。そんな雰囲気から部長に選ばれたのだと思います。
高校3年のとき、先生が、他校と練習することで切磋琢磨されると考え、合同
練習を企画しました。一日目の練習がものすごく厳しかったのです。二日目、
同級生が「おれ、休むわ」と言いました。私も行きたくなかったので、「じゃ
あ、おれも」と言って休んで、麻雀をして遊んでいました。
練習をさぼった翌日、先生から呼ばれました。「そんなんじゃ、続けさせるわ
けにはいかないから、まずは反省文を書け」と言われました。
反省文を書いて先生に渡しました。
「反省文読んだけど、これでは復帰でけへん。やめろ」と先生から言われまし
た。
私としては、反省はしていたんです。先生は担任の先生でもあったので、許し
てくれると思っていました。そのため、反省文まで書いて許してもらえなかっ
たことに「なんで?」と思いました。
それでも、先生から「やめろ」と言われて、「はい」としか言いようがなかっ
たです。「やらせてください」とは言わなかったです。「なんであかんねん」
という思いはありましたが、面と向かって先生と話はしませんでした。食い下
がることもしなかったです。
どこか本気になれなかったのでしょうか。「しょうがないな」と、あきらめて
いました。
小学校、中学、高校と振り返ったとき、あらためて、何事も本気でやって来な
かったなぁということを痛感します。
一方で、いつも私の家には友達が集まっていました。みんなでワイワイするこ
とを求めていた。そして、みんなが居心地のよい場所を提供したいという想い
だけはあったと思います。
「おやじ、よろこんでるぞ」
高校3年生になると、周りが就職活動し始めました。私は会社勤めは無理だと
思っていました。工場のラインとか毎日同じ作業は耐えられないし、まして
や、しゃべるのが苦手なので営業はできないと思いました。
父の仕事は、小さいころから見ていたので「これなら自分でもできるかな、向
いてるかな」と思っていました。高校のとき、バイトで、看板に文字を張り付
けたり、父の仕事の手伝っていたので、ある程度分かっていました
結局、就職活動はしませんでした。家を継ごうと思っていたので、「あと継ぐ
わ」と父に伝えました。父は「あ、そうか」と淡々と言いました。それでも、
表情は、うれしそうでした。
父の友達が家に遊びに来ると、「おやじ、よろこんでるぞ」と言ってくれまし
た。そのとき「やっぱり喜んでいるんだな」と思いました。
母は「自分で決めたんならいいんちがう?」と言いました。
父の会社に入ると、掃除や片付けなど雑用ばかり。見て盗めというところが多
い世界だったので、父は手取り足取り教えなかったです。父も教わったことが
ないので、具体的にどう教えていいのかわからないのかもしれません。
5年くらいすると、高圧洗浄機の使い方とか、刷毛やローラーも使うようにな
って一通りできるようになりました。それだけでなく、塗装技能士の資格を取
り、三重県の知事賞も受賞しました。
父は周りの人に「トンビが鷹を産んだんや」と言ってよろこんでいました。
30歳のころ、大きな公共工事の依頼がありました。下請で請け負いました
が、自分たちで施工ができない量でした。それで、あちこち応援とか頼みまし
たが、工期が間に合わない。
結局、工期内に工事が終わらないという事で契約違反になりました。そこから
父は、ずっと家に閉じこもって、なにもしないで酒を飲んでいました。「もう
死んでええんや」「わしはもう死ぬんや」ということを言っていました。
私はというと、今後の生活に不安で、「ここから先どうしよう」と毎日泣いて
いました。
ところが、経営のことも工事のこともまったく知らない母が、取引先に一緒に
頭を下げに行ってくれたりしました。父の面倒みたりすべてのことをやってく
れました。
母は、弱音を吐かずに、やるべきことをやってくれたのです。
「取り返しのつかないことをしたな」
34歳のときに、リーマンショックが起きました。本当に何も仕事がなくて、
「どうしよう」と思い詰めました。私が声をかけて入社した従業員が 1 人いる
ので、仕事を作らないといけないと思いました。
父は具合がわるいので頼れない。今度は、「自分がやるしかない」と思いまし
た。
チラシを作ってポスティングしたり、飛び込み営業をしたりしました。結果、
仕事はまったく取れない。そもそも、やり方もまったくわからなかったです。
なにも知らなければ成果は出ない、という世の中の厳しさを知らされました。
リーマンショックから回復すると、仕事が増え出しました。ところが、職人は
増えないため、休みもなく仕事をしていました。
やっと、休みが取れるとなると、前日から徹夜で麻雀に明け暮れる。結婚して
8年くらい経っても、そんな生活をしていました。
だんだん、奥さんから不満を言われるようになりました。家事してくれない。
どこか行きたいと言っても連れて行ってくれない。奥さんも仕事をしていたの
で、一緒にゆっくり話す時間もありませんでした。
ある日、奥さんから「私は家事と育児だけしてるお手伝いさんなの?」と悲し
げに言われました。私が「そんなことないよ」と言っても不機嫌でした。
それから喧嘩ばかりするようになりました。大喧嘩をしてから、数ケ月、まっ
たく話をしない状態が続きました。
全然会話も何もないので、ちゃんと話しないといけないと思って切り出しまし
た。すると、奥さんから「離婚したい」と言われました。もう決めていたんだ
と思います。私がなにを言っても聞いてもらえませんでした。
ひと言「あなたは感謝の気持ちがなにもない。冷たい…」と言われました。
その言葉を言われてみて、はじめて「そやな…」と思いました。「取返しのつ
かないことをしたな」と思いました。すでに時遅し、でした。
39歳の時に、今のカミさんと再婚しました。家庭を持った方がいいと知り合
いの人が紹介してくれました。
今度こそは、カミさんのことを大事にして、家のことをできるだけ協力しよう
と思いました。そして、遊びに行くのをやめました。また。一人で行動するの
をやめて、できるだけカミさんと一緒にいるようにしました。
二度と「あなたは感謝の気持ちがなにもない。冷たい…」と言われることがな
いように。二度と、悲しませることがないように。
「そこ、大事なところやな」
社長になったのは38歳のときです。父から「もう全部お前がやってみろ」と
言われました。今思うと、38歳で代替わりしたのは、後々に私が困らないよ
うに、全て自分で出来るように、という親心からだと思います。
その後、下請の仕事が増えてきたので、社員を増やしました。社員のために
も、仕事量を増やしたいと思うようになったのです。
ただ、下請だと元請さんに影響されるので、自分でも仕事を取れるように考え
ました。その1つとして、ポータルサイトに登録して、そこから自分でも元請
として仕事を取れることをやり始めました。
結果として、元請としての仕事も増え、社員もまた一人増やしました。
父が69歳のとき、「軽トラ買ってくれ」と言いました。まだまだ仕事をやり
たい気持ちがいっぱいあったのです。ところが、父は、ちょうどそのころ、健
康診断を受けると、ガンが見つかりました。
父は入院した途端、急に弱ってきて寝たきりになりました。そのため、軽トラ
は買わず仕舞いになりました。
そんな時も、母は、気丈に、父の身の周りの面倒を見ていました。
入院して7ケ月後、父は病院で息を引き取りました。
悲しいと同時に、まだまだやる気があったので、父の無念さを思うと、悔しか
ったです。やるせなかったです。
その時から、生きているうちは、「やり切ったぞ!」という気持ちで、やり切
りたいと思うようになりました。
それから、なにか1つ本気で一生懸命にやってみたい!と考えました。目標と
して、地域NO1の会社になることを掲げました。その後、セミナーに参加し
て、マーケティングや社員教育のことまで、一生懸命勉強しました。
ポータルサイトに登録して、仕事が増えるようになったのですが、お客さんか
らのクレームも増えていったのです。
しかも、「最後の掃除が足らなかった」とお客さんに言われて気づいたりする
ことが繰り返し起きるようになりました。また、雨戸を右左間違えて入れたり
とか単純なミスを繰り返していたのです。
最初は、トラブルの度に、逐一職人に注意していました。そのうち「なんぼ言
っても無駄だな」と感じました。職人が自分で考えてやらないと、お客さんに
よろこばれるような気持ちは生まれないなと思ったのです。
それから、職人の教育が必要だと気づきました。
そこで、お客様への対応や現場の作業内容など一連のやることすべてを動画に
してマニュアル化しました。それを見て、小テストをして習得を計りました。
ところが、ある程度まで改善しても、根本のところは改善しないのです。
「どうも、教育するだけではだめなんじゃないか」
と思うようになったのです。一方的に教えるだけではだめで、一緒に成長する
ことが必要ではないかと気がついたのです。社員との人と人の関係を作るため
に、社員の気持ちを大事にするようにしたのです。
具体的には、まず、毎朝、朝礼をやりました。
毎日教訓的な話をみんなで読みまわしていきます。さらに、一人ずつどういう
意味合いか話してもらいます。そうすることで、一人一人の考えを知ることが
できるようになったのです。さらに、私が一人一人にコメントをしてコミュニ
ケーションを図るようにしました。
もう1つは、日報です。
現場でその日気を付けて作業したことや気づいたことを日報にあげてもらいま
す。いいこと気づいたなと思ったら、「そこ大事なところやな」「大事なとこ
ろ気づいたな」とコメントを返すようにしました。
お客さんには、奥様が家にいる場合は、今日の作業と明日の作業もお伝えす
る。また、家にいらっしゃらないご主人には LINE で日報を送る。
そのような気づかいをすることで、お客さんの安心感が増えたようです。
なにより、職人が自ら、お客さんがどうしたらよろこぶのか?ということを考
えるようになったことが、うれしいです。
なぜ、私は【感謝】を使命と宣言しているのか?
再婚してから、今の生活は、以前の結婚生活と真逆の生活をしています。
仕事では、殆ど残業せずに真っすぐに家に帰り、家事、育児に時間を割く。休
みの日は家族と過ごす。自分の趣味の時間もTVを見る時間さえもない生活で
す。
仕事より家のことを重視しているのに、時々ちょっとしたことで喧嘩になりま
す。
たとえば、私が皿を洗っている最中に、カミさんは「子供の歯磨いて」という
ようなことを頼みます。「これ終わってからでいいんちゃうの?」と思ってい
て、返事せずに無視をします。すると、「そんなんいいから、先こっちしてほ
しい」と言われると、「なんでそんなきつく言われなあかんの」とイライラし
て喧嘩になる。
また、仕事の段取りを決めたりするのは、家にいるときがどうしても出てくる
のです。それで携帯を触っている時間が続くと「携帯ばっかり触って」と言わ
れるんです。「仕事のことだから今やらんとアカンのや!」と強く言ってしま
うことがあります。
2021年の冬に、参加している経営者の勉強会で、ある有名な企業の社長さん
が「家庭を大事にしていたら商品が大ヒットするようになった」と話されました。
「そうか、もっと家のこと大事にせなアカンのかな?」と思い、「おれと結婚し
てみてどう?」と聞いてみました。すると、カミさんは、こう答えました。
「昔はめちゃくちゃ優しかった。今と全然違う…」
と言われた瞬間に、青ざめました。
「このままやったら、同じ過ち犯してまう…」
「私が全てやってやっているんだ」という傲りがあり、思い上がった態度が前
面に出ていたのです。
それなので、不満や用事ばかり言われると、心の中で「こんなにやっているの
に?」と思い、凄く苛立った態度を見せていたのです。
そう思ったとき、以前妻から言われた言葉を思い出しました。
「一見優しそうな顔して、実は冷たい…」
その当時は、妻の存在が、大切だと思えていなかった。普段妻がやってくれて
いることが、当たり前のことだと思っていた。だから、いつも自分のことしか
考えていなかったかも…
その瞬間、それまでのことが一気に見えてきたのです。
私は、カミさんに対しても、感謝が欠けていたのではないか...
高校2年生の時、弓道部の先輩が、私を部長に選んでくれた時、なにも言いま
せんでした。
高校3年生の時、弓道部の先生が、われわれの成長のために合同練習を設定し
てくれた気持ちも全く考えなかった。
弓道部の先輩にも先生にも、まるで感謝の気持ちがなかった。
父が工事の遅れで精神的に参ったとき、父がやるのが当たり前に思っていたの
で、自分ではなにもできなかった。
「これからどうしよう」と自分のことしか考えず、会社を守って来てくれた父
への感謝の気持ちがまるでなかった。
奥さんから、「私は家事と育児だけしてるお手伝いさんなの?」と言われ
ても、やってくれていることが、当たり前のことだと思っていた。
奥さんに感謝の気持ちがまるでなかった。
そうなんです。私は、“感謝”の気持ちが欠けていたのです。
この体験から、私は、【感謝】を使命として宣言することにしました。
【感謝】を使命と宣言することで、考え方と行動が変わりました。
工事をしたお客さんに今までなかなか勇気がなくて聞けなかったことを聞いて
みようと思いました。工事をやりっぱなしにせずに、ささやなか感謝の気持ち
も伝えたかったからです。
わたしの印象について、このように話してくれました。
「人当たりいいし、聞いたことにちゃんと応えてれる。年寄りから見たら優し
いですよ(笑)」
「なんとかします、という寄ってきてくれるスタンスがあるから、頼もうって
思った」
「隅々まで見てくれて、その上で、細かくわかりやすく説明してくれたので、
信頼できる、と思ったが一番」
このように言っていただけると、この方のためにもっとよろこんでもらいたい
と思いました。
職人の印象については、このように話してくれました。
「職人さんが軒天を塗ってる時。私が『これ、塗るの大変やろな』と言っとっ
たら、「あんまりこういう現場はないから、楽しいです」って言ってくれた。
あれ、忘れられへんわ」
「朝の挨拶から始まって、『今日はこういう事させ てもらいます』って、し
っかりしている。 作業終わった後も『今日はここまでできました』とか、一
回一回報告してくれる。社員教育が、行き届いてるなぁと思いました」
「吉田さんのいいとこは、お客さんを思う前に、社員さんを大事にしてると
こ。
社員さんも、吉田さんを信頼したうえでの作業だと思うから、吉田さんがい
なくてもちゃんとしはるしね」
職人だけでなく、私の教育についてまで、言ってくれる。この上ないしあわせ
です。本当に、この仕事をやっていてよかった。職人と気持ちを合わせながら
やってきたことが、伝わってうれしかったです。
リーマンショックになる前に入社し、一緒に苦楽を共にした社員に、なぜ今日
までうちの会社にいてくれるのか?聞いてみました。すると、このように答え
てれました。
「今日まで社長の会社にいるのは、13年前社長に拾ってもらったという気持
ちがあるからです」
彼の口から感謝の気持ちが出たこと、とてもうれしいです。
さらに、今後私に期待することはないか?聞いてみました。
「この会社がさらに大きくなる期待はあります。ただ、社長は一人で突っ走り
すぎるところがあるのが心配です」
今回思い切って、社員の本音を聞いてよかったです。私のことも心配してくれ
て、感謝でいっぱいです。
「社長さんだけでなく職人さんも安心して任さられる会社ないかなぁ」
と思っている方へ
「わかりやすく細かく説明くれるかなぁ…」
「細かなところまで、ちゃんと見てくれるかなぁ…」
「職人さんは、ちゃんとした人が来てくれるのかなぁ…」
このような方に、この物語を読んでもらいたいと思っています。そして、「人
当たりはいいし、細かなところまで対応してくれそう」と感じていただけた
ら、とてもうれしいです。
カミさんから「昔はめちゃくちゃ優しかった。今と全然違う…」と言われてか
ら、1日1回家族が笑顔になるような行動をすると決めました。
家でどうしても翌日の段取りをしないといけない時、感謝の気持ちからできる
ことはないか、考えました。携帯でやり取りをする前に一言、「今から仕事の
返事せなあかんねん。何分だけ時間もらえる?」と言うようにしました。
カミさんがわかってくれたら「ありがとう」と感謝を伝えることができるよう
になりました。
最近、娘から聞きました。
「ママが、パパに優しくしようと言ってたよ」
やっと、感謝の人生を歩み始めることができるようになりました。
お客さんだけでなく、職人、家族に、【感謝】を使命と宣言して、行動してい
きます。
最後に
亡きお父さんへ
ゼロから会社をつくること、大変だったろうな。
お父さんの財産を引き継げたこと
今、思うと、ありがたいです。
そして大した苦労も無く育ててもらったことに
今になって気づき、遅いけど、感謝してます。
お母さんへ
どんなときも、弱音も愚痴も言わずに
お父さんと私を支えてくれたこと
思い出すたびに、すごいと思います。
本当にありがとうございます。
カミさんへ
本当に大切な人を失うところでした。
正直な気持ちを言ってくれて、
ありがとう。
そしてケンカしても直ぐに仲直りしてくれて
ありがとう。
これからは、家族みんなを笑顔にするからね。
吉田 武史
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